子どもを叱らずにすむ5つの方法

子どもが通う学校の、学園長の講演がありました。
タイトルは「叱らぬ教育 -その哲学と実際-」です。

この文言をみて、気になる人も多いのではないか?と思います。
自分もその一人です。横浜にいる時は、子どもを叱ることが多く、起きた問題に対して何故そうしたのか? なったのか? を追求、もしくは考えさせる事が必要、これが教育……的な考えだったのですが、ある時相方に指摘を受け、本を読んだりしているところに、今子どもが通う学校に出会いました。

最近までは、「飽和の時代は一貫教育より自由教育だなぁ……。」という納得の仕方をしてきましたが、この講演を聴いて、心理学視点での納得を得ました。(学園長の本があるのだけど、実はまだ読み切っていなく……)

講演の内容をかいつまんで書きたいところですが、前提知識が必要なのでこれがちょっと難しい……。講演内容を整理した資料を頂けたので、思い切ってそれを抜粋引用したいと思います。へんにかいつまむよりも、その方が価値があると思うし、学園長の考えも伝わるし、皆が良くなることの貢献になるのでは、と思います。

 

講演内容のまとめ

子どもが通う学校は、A.S.ニイル(1973年没)という人が創設したサマーヒル・スクールから直接影響を受けてスタートした私立学校です。
そしてこの講演も、ニイルの考え方にフォーカスして話しがすすみます。

精神分析学の創始者で無意識の発見者といわれるフロイトは、人間の心の構造を自我、本能、超自我に分けてとらえた。本能と超自我は無意識に属する。三者の関係に大きな問題がなければ安定した精神状態が維持できる。

しかし内部で対立が起き、それが解決されないと様々な問題行動となって表面化する。とくに本能(生命力)と超自我が葛藤を起こし、不安、緊張、罪障感、自己否定感などがわだかまると、盗み、うそ、破壊、白昼夢、いじめなどが始まる。困ったことに、この対立は無意識の深みの中で生じるので、本人にも自分の行為の原因がわからない。

無意識の中で生じる、という件がとても重要だと思っています。
これを理解しないと、自分の考えを変えるのは難しいと思います。

 

フロイトとニイルは、無意識の中の対立が問題行動の原因だと見る点では一致している。しかしその解決方法は対照的だ。フロイトは、自我(無意識)を強くして本能をコントロールする力を強めよと説く。なぜならば本能には「生の本能」と「死の本能」の2つがあるからだ。前者は愛や創造に向かうのに対し、死の本能は憎しみや破壊に向かう。

ニイルも、若い頃は同様の見方をしていた。しかしサマーヒルの子どもを観察して、やがて死の本能説に疑問を抱くにようになる。つまり、子どもが生まれつきの本能は生の本能だけで、それが外部からの圧力によってねじ曲げられた時に、死の本能に見えるものが生じると考える。

子どもが本能だけをもって生まれるとすれば、私たちは発想を転換しなくてはならない。ニイルは、無意識の深みで本能(生命力)と対立し葛藤を起こしている超自我に目を向け、これを除去する、その力を弱める、あるいは再形成することが必要だという。

子どもの問題行動は、無意識における生命力と超自我の対立から生じる。無意識の中の問題なので、お説教や叱責は十分な効果を発揮でない。時には逆効果になる。根本的な解決方法は、既成の道徳によって作られた超自我から彼を解放し、これを新しいものに形成し直すことだ。
もちろんこれは、権威主義にきびしい質ではできない。お説教や詰問でも効果が薄い。立派な人格者によるお手本を見せよ、という人もある。しかし完璧な人格者など、そうそういるものではない。

ニイルのとった方法は、自由な共同生活である。つもり子どもたちが、古い権威主義の道徳から解放されて、仲間や大人とともに暮らし、さまざまな経験を通して自分自身の感じ方や考え方をきずく場としての学校である。
「叱らぬ教育」というのは、たんなるしつけの方法や子育て術ではなくて、伝統的な価値観から解放して新しい世界観を育てるという哲学を持った教育であることに気づくはずだ。

ニイルがサマーヒルを創設したのは、第一次世界大戦後の1921年、ドイツ(ドレスデン)においてである。その後、1924年にイギリスに帰国して再出発したのだが、1937年には、自分の仮説が正しかったと宣言している。

と、ここまでが、前提知識としてのニイルの考え方概要です。

 

私たちが叱らずにいられないのは、権威主義的な子育てを受け、古い価値観を内面化させたままでいるからだ。そして程度の差はあっても、どこかに自己否定感を抱いているからだ。ニイルの表現を借りれば、困った子どもと同じ船に乗っているのである。不自由な不幸なのだ。

だから自己否定感や固定観念を刺激するような行為を目にすると、これを受け入れたり見過ごしたりできない。頭ではわかっているつもりでも、つい叱ってしまう。そしてイヤな気分になる。時には、この自己嫌悪感に耐えられなくて、さらにお説教を追加する。親や教師は、この自分自身の不自由さに気付き、そこから開放されなくてはいけない。

↑これは、叱ってしまうメカニズム…というか、背景。

 

ここまでを前提に、叱らずにすむためのハウツーが紹介されました。こちらも以下に引用紹介します。

1)抱きしめる
叱りたくなったら抱きしめる。そうすると、その子を受容でき、理屈抜きに幸福な気分になる。子どもにとっても教師にとっても効果抜群だ。子どもを抱きしめながら叱ることのできる人はいない。

2)肯定的評価
子どもの行為やことばを前向きの表現で評価する。友だちに腹を立てて、思わず壁にパンチして穴を開けた子には、「でも友だちを殴るのは我慢できたんだね」という。10分遅刻してきた子に「10分も遅れた」というのは下手くそなやり方だ。「10分の遅れですんだ」といおう。困った行動を直してほけしれば、「それはダメ」とはいわないで、「こうした方がいいよ」といおう。

3)能動的な聞き方
カウンセリングでつかう技法の応用である。子どものことばに批判を加えないで、そのまま反復して確認する。聞いてもらっているうちに、子どもは受容されていると感じ、自分を振り返るだけでなく、問題の解決方法を思いつくことも少なくない。

4)善悪の評価をしない
当校(子どもが通う学校)のほとんど唯一の道徳律は「人に迷惑になる行為は止めよう」である。じっさい、これで十分なのだ。私たちは、子どもの迷惑な行為や困った言動を制止することはある。しかし「善いー悪い」の判定はしない。子どもが自分の言動が「不都合」であることに気づけばそれでよい。いいかえれば、大人は道徳律の代弁者であることを辞める。「気づいてもらう」というのがキーワードだ。

5)私、メッセージ
親業訓練の創始者であるトマス・ゴードンの推奨する方法である。善悪を持ち出さずに「私は、それは好きじゃないなぁ」とか、「それだと私は困るんだ」などと正直に自分を出す。道徳律を持ち出さないのと同じ発想である。
これらは意識的な方法なのだが、実行している不思議なことに、いつとはなしに子どもを肯定し、そして自分自身が心理的にラクになり、ハッピーな気分になっていることに気づく。
「最もよい教師は子どもとともに笑う。最もよくない教師は子どもを笑う」
ニイルは、数々の名言を残したが、そのなかでも私がいちばん好きなのがこれだ。子どもととみに笑う教師は、叱らずにいられる教師であり、幸福な教師である。

以上になります。

 

この話しを聞いたり、本を読んだりしていても、「叱らない」ことは容易ではないです。叱る回数自体は減りましたが、無くなってはいないのです。それだけ身体に染みついてしまっているのでしょうし、自分が自由ではない、ということなのでしょう……。

今回の話しは主に教育面の話しですが、人は、生活しなくてはいけないことや、やらなきゃいけない(と勝手に決めつけている)事に追われ過ぎていることも要因なのではないか?と思いました。
これらから少しでも解放されると、もっと変われるのかな…。

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