「自由学校の設計」を読んで、仲間にもちょっと目を通してほしいまとめ

子ども雑記

子どもが通う学校は、自由教育とか、自由学校と呼ばれるのですが、それがどういう事なのか、どういう経緯があるのか、などがまとめられた本を読みました。タイトルは、「自由学校の設計―きのくに子どもの村の生活と学習」。著者は学園長の堀 真一郎氏。

以前書いた「子どもを叱らずにすむ5つの方法」というエントリー同様、これについてはまだまだ自分の言葉では語れないので、仲間にもちょっと目を通して欲しいなぁ~と思うところを抜粋引用させてもらおうと思います。(と、言いつつ、ほぼ自分用メモなんですが…)

以下どうぞ。

不自由な子どもとは、内面に不安や自己憎悪を抱えた子ども、知識の量は多くても自分で考えられない子ども、そして大人から道徳を押し付けられ、思いやりや実際的な共に生きるための知恵の乏しい子どもである。自由な子どもとは、感情的に解放され、自分で考える態度を持ち、共同生活の中で民主的な行動の術を学ぶ子どもである。ひとことでいうと、自由な学校とは、感情的にも知的にも人間関係でも自由な子どもをめざす学校である。

子どもの心に「自分が好き」という感情を取りもどすことこそ、現代教育のさまざまな問題を解決するための共通の目標でなければならない。前の章で整理したように、私たちがその成長のお手伝いがしたいという願う自由な子どもとは、感情面でも、知的発達の面でも、人現関係の面でも、自由な子どもである。つまり無意識な不安や自己否定感から解放されて、生き生きと生活し、自分自身の頭で考え確かめる態度と力を持ち、ほかの人と生きる喜びを味わい、そのための知恵を身につけた子どもである。

自己教育力:これからの変動し、生涯にわたって学習が必要となる社会にあって、「どんな変化が起きても、その変化に主体的に対応して生き抜いていける、そういう能力、態度」である。

現代の子どもたちかに、内心の不安や自己憎悪から自由になってほしい。自発的に、そして創造的に考える態度や力が育って欲しい。自分自身をしっかりと持ち、しかも共に生きる喜びを存分に味わって欲しい。つまり、感情的にも知的にも、そして人間関係でも自由な子どもへと成長してほしい。この成長をお手伝いするために、私たちは、教師中心主義から子どもの自己決定の重視へ、画一主義から個性の尊重へ、書物中心主義から「為すことによって学ぶ」へと大胆に発想を転換しよう。

子どもたちが解放されなくてはいけないのは、公式や年代中心の暗記教育からだけではない。彼らの自立を妨げる知的な臍の緒の一つに、世論や常識がある。激しく変化し、情報があふれ、世界観も多様化するこれからの社会において、いちばん大事なのは何だろうか。それは世論や常識にあやつられて右往左往しないで、自分自身をしっかりと維持し、みずからの判断を大切にする生き方ではないだろうか。そしてもう一つ、私たちは、自分自身のものの見方からも自由ではなくてはいけない。それまでのももの見方に縛られていては、自由に考えることはできないのだ。子どもたちの多くは、この点で大人よりずっと自由だ。素直に見つめ、新しい発見に素朴に感動する。「あっ。なんだ!そうだったのか!」といって目を輝かせる。大人は、なかなかそうはいかない。

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